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日本は戦爭を記憶に刻み、侵略の罪行を忘れてはならない
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2016-08-16 16:08:04 | 新華網 | 編集: 陳辰

  新華網8月16日東京(記者/楊汀)8月15日は日本が降伏した日だ。毎年この日に日本は大規模な「全國戦沒者追悼式」を開催するが、今年も例外ではない。

  日本で第二次世界大戦と関係する記念行事は少なくなく、戦爭をテーマにした公園、博物館、記念碑などの施設も多い。表面的に見ると、日本は戦爭を忘れていないように映るが、事実上、戦爭の記憶の背後で、日本の戦爭に対する反省、特に侵略者及び加害者としての反省がますます少なくなっている。

  例えば、日本の安倍晉三首相は今年の「全國戦沒者追悼式」で挨拶した際に、「戦爭の慘禍が再び繰り返されないことを切に願う。」と述べた。安倍首相のこの言葉は戦爭への反省のように聞こえるが、詳細に分析すると、挨拶の全文は1994年以降に日本の歴代首相が必ず言及した「加害責任」に全く觸れておらず、「反省」という表現もないことがわかる。事実上、安倍首相は2012年末に日本首相に再任した後、「加害」と「反省」を提起しないことが安倍首相の戦沒者追悼式の挨拶の慣例になっている。

  昨年の第二次世界大戦終戦70周年記念行事と比べて、今年の「8•15」前の日本の世論は盛り上がらなかった。第二次世界大戦関連の主な報道は8月6日と10日、即ち広島と長崎で開かれた原爆投下記念式典の前後に集中していた。

  長年にわたり頻繁に提起された戦爭の話題を総括すると、日本の世論の焦點は戦爭中に日本人が體験した苦しく辛い経験に集中している。米軍による日本本土での大規模な空襲と広島、長崎への原爆投下、日本軍捕虜の過酷な條件のソ連戦爭捕虜収容所での労働などが含まれる。これと対照的に、日本が発動した侵略戦爭が被害國の人點にもたらした悲慘な危害については、故意に記憶を薄れさせている。

  今年の「8•15」の前に、日本人學者の崛田江理氏の新書『1941決意なき開戦——現代日本の起源』がよく売れている。同書は日本が発動した太平洋戦爭の原因を新たに解読し、日本が戦爭に向かった原因は當時の策定者に「責任意識」が欠けていたことだと指摘する。明治維新時期の勇気があり、計略に長け、責任感があった策定者が政権を握っていれば、日本が悲慘な結末を迎えるのを回避できたかもしれない。しかしながら、一體何が日本社會の戦爭への熱狂的な情緒を高ぶらせる原因になったのかについて、筆者は答えていない。

  このことから、日本政府と民間の戦爭への記念にしても、日本人學者の戦爭研究にしても、偏りが強く、本末転倒でしかない。本國の民衆の苦痛に満ちた経験をひたすら強調し、悲慘さを伝播し、戦爭の悲劇を指導者個人の資質と一部の偶然の要因と結論付けているが、これは反省とは言えず、反省とほど遠い。

  日本が侵略戦爭を発動した真の原因を深刻に思考しておらず、犯した戦爭の罪行を懺悔することなく、戦爭の悲劇が再び繰り返されないようにすることは空論に過ぎない。

 

 (新華社より)

 

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日本は戦爭を記憶に刻み、侵略の罪行を忘れてはならない

新華網日本語 2016-08-16 16:08:04

  新華網8月16日東京(記者/楊汀)8月15日は日本が降伏した日だ。毎年この日に日本は大規模な「全國戦沒者追悼式」を開催するが、今年も例外ではない。

  日本で第二次世界大戦と関係する記念行事は少なくなく、戦爭をテーマにした公園、博物館、記念碑などの施設も多い。表面的に見ると、日本は戦爭を忘れていないように映るが、事実上、戦爭の記憶の背後で、日本の戦爭に対する反省、特に侵略者及び加害者としての反省がますます少なくなっている。

  例えば、日本の安倍晉三首相は今年の「全國戦沒者追悼式」で挨拶した際に、「戦爭の慘禍が再び繰り返されないことを切に願う。」と述べた。安倍首相のこの言葉は戦爭への反省のように聞こえるが、詳細に分析すると、挨拶の全文は1994年以降に日本の歴代首相が必ず言及した「加害責任」に全く觸れておらず、「反省」という表現もないことがわかる。事実上、安倍首相は2012年末に日本首相に再任した後、「加害」と「反省」を提起しないことが安倍首相の戦沒者追悼式の挨拶の慣例になっている。

  昨年の第二次世界大戦終戦70周年記念行事と比べて、今年の「8•15」前の日本の世論は盛り上がらなかった。第二次世界大戦関連の主な報道は8月6日と10日、即ち広島と長崎で開かれた原爆投下記念式典の前後に集中していた。

  長年にわたり頻繁に提起された戦爭の話題を総括すると、日本の世論の焦點は戦爭中に日本人が體験した苦しく辛い経験に集中している。米軍による日本本土での大規模な空襲と広島、長崎への原爆投下、日本軍捕虜の過酷な條件のソ連戦爭捕虜収容所での労働などが含まれる。これと対照的に、日本が発動した侵略戦爭が被害國の人點にもたらした悲慘な危害については、故意に記憶を薄れさせている。

  今年の「8•15」の前に、日本人學者の崛田江理氏の新書『1941決意なき開戦——現代日本の起源』がよく売れている。同書は日本が発動した太平洋戦爭の原因を新たに解読し、日本が戦爭に向かった原因は當時の策定者に「責任意識」が欠けていたことだと指摘する。明治維新時期の勇気があり、計略に長け、責任感があった策定者が政権を握っていれば、日本が悲慘な結末を迎えるのを回避できたかもしれない。しかしながら、一體何が日本社會の戦爭への熱狂的な情緒を高ぶらせる原因になったのかについて、筆者は答えていない。

  このことから、日本政府と民間の戦爭への記念にしても、日本人學者の戦爭研究にしても、偏りが強く、本末転倒でしかない。本國の民衆の苦痛に満ちた経験をひたすら強調し、悲慘さを伝播し、戦爭の悲劇を指導者個人の資質と一部の偶然の要因と結論付けているが、これは反省とは言えず、反省とほど遠い。

  日本が侵略戦爭を発動した真の原因を深刻に思考しておらず、犯した戦爭の罪行を懺悔することなく、戦爭の悲劇が再び繰り返されないようにすることは空論に過ぎない。

 

 (新華社より)

 

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