米紙「ニューヨーク タイムズ」の中國語ウェブサイトにこのほど、「失われる男らしさ?男子生徒を『救う』ために男性教師を急募する中國の學校」と題された記事が掲載された。これによると、中國の基礎教育の分野では、教師の男女比が著しい不均衡を呈しており、「中國の教育者は、男性教師の不足が、臆病で自己中心的で女の子のような男子世代を生んでしまうのではないかと心配している」。
男子は本當に救わなければならないほどの危機に直面しているのだろうか。危機を主張する人點は、男子生徒が近年、勇敢さや意志の強さ、責任感などの男性らしさに欠け、女性化の傾向がいよいよ深刻化しており、教育によってこれを「救う」必要があると訴える。私も確かに、一部の教師から、現在の男子生徒は女子生徒よりもめそめそとしており、尻込みしがちで弱點しいという話を聞いている。學業レベル全體も女子生徒に及ばないという。
だがこの問題は、現段階の中國に特有のものというわけではない。まずは、情報時代に突入した世界においては、これまで男性が主導して來た仕事でも、女性の熟練が可能となり、時にはより優れた能力を発揮するようになっている。社會は女性らしさをより評価するようになっており、それは西洋の社會においても同様である。またもう一方で、世界各國の映畫スターの性別の特質も現在、より曖昧になりつつある。「偶像」(アイドル)の振る舞いが児童に與える影響は大きく、一部の男子生徒が女性のようなしとやかさを身につけるようになるのもおかしくはない。同時に、一部の女子生徒にも、勇敢さや意志の強さ、負けず嫌いといった男性化の傾向が現れている。こうした性的役割の多元化は、社會発展の環境と調和を支えるものと言える。それを「救おう」というのは、伝統的な「男権」時代のままの考え方の表れでしかない。現代社會において男子に求められているのは「救い」ではなく、役割の「革命」なのではないかとも言える。
中國では、幼稚園や小學校の男性教師の數が非常に少ないのは事実だが、中高や大學になると男性教師の割合がぐっと増す。生徒が男性教師の影響を受ける機會は教育プロセスの全體を通じた総量としては問題なく、影響を受ける段階が異なるだけである。こうした観點から言えば、「男子の危機」は事実上、誤った命題と言える。こうした危機が本當に存在しているとしても、學校教育との因果関係は認められない。
優れた教育とは一種の合力である。國家が、「尚武、尚実」(武を尊び、実を尊ぶ)を教育の旨として國民の強壯な身體と勇敢な精神、社會的責任を重んじ、保護者が、家と國に対する思いの養成を子どもの教育の第一に置き、學校が、心身の健康や責任感などの核となる素養を持った學生の育成を進めれば、強壯な青少年らは、男子 女子を問わず、力強い新たな中國を形作る力となっていくはずである。(文:鄭イ 北京師範大學教育學部教授、「イ」は草冠に「威」)
(チャイナネット)
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