
地図と徴収された日本軍部が書いた文字が記載されている資料。共産黨が指導する抗日勢力が中國を侵略した日本軍を強く牽制し、消耗させたことを十分に証明している。舊日本軍は中國共産黨が率いる抗日勢力を主要な敵と見ていた。
舊日本軍はなぜ中國共産黨の拠點であった陜西省延安を爆撃せずに、重慶ばかり空爆したのか?これは、ネット上で抗日戦爭について討論する際に、極めてよく見かける問いだ。「明らかに、この問いは筋が通っていない」と語るのは、北碚區檔案館の馮琰館長だ。「中國抗日戦爭の中流の砥柱ーー日本檔案が中國共産黨による指導の敵後抗戦を再現」の記者會見で、馮琰館長は舊日本軍による延安爆撃の寫真を公開した。これは、國內で初めて公開された「舊日本軍の空襲を受けた延安」の寫真だ。また、北碚區檔案局(館)は中國共産黨による指導の敵後抗戦を再現した珍しい檔案を公開した。馮琰館長は「この珍しい檔案史料は、すべて初めて公開するものだ」と語った。重慶晨報が伝えた。
日本政府は一貫して中國共産黨が発動、組織した群衆が抗日戦爭で極めて大きな影響力を持っているという見方をしていた。そのため、舊日本軍は正面からの侵略攻勢作戦を発動する際、目標ターゲットを共産黨が指導する抗日根拠地、つまり延安に定めた。単に延安は人口が少なかったため、重大な戦略目標にはならず、舊日本軍の空襲も重慶に比べるとはるかに少なかっただけだ。
馮琰館長が提供したこの寫真史料は、北碚區檔案局が徴集した朝日新聞社の従軍記者が1939年10月に撮影した日本の佐瀬航空部隊が延安を爆撃した際の寫真だ。
當時10月15日、舊日本軍の戦闘機71機が4回に分けて順番に延安に集中的な空爆を行った。午前9時、舊日本軍の戦闘機36機が延安を空爆し、爆弾100発を投下した。午後2時、戦闘機35機が3回目の空爆を行い、120発の重量級の爆弾を投下した。これによって、多くの建物が倒され火事となり、10人が死亡、13人が負傷した。寫真には、延安の周囲の陝北高原の地形や平坦な都市部のいたるところに濃煙が上がっている様子がはっきりと映っている。