

日本語を教える堀川さん。
「ついに『傅山(ふざん)全書』を手に入れた。皆さんご苦労様でした」。16日正午、中國で博士號を取得した堀川英嗣さん(38)は、微信(WeChat)のモーメンツにそう投稿し、メッセージと共に真新しい「傅山全書」20冊が彼の本棚にきれいに並べられた寫真が添えられていた。「傅山全書」編集委員會のリストには彼の名前も入っている。中國新聞網が報じた。
明代末期・清代初期の中國の道家の思想家で書道家、醫學家でもある傅山は、山西省太原市出身で、顧炎武らと共に、清末から民國初年の歴史學者・梁啓超に「清初六大師」と稱された人物。
中國に來て14年になり、「傅山の追っかけ」を自稱する堀川さんは、傅山の石碑を探すために、山西省の村や寺を訪れている。
眼鏡をかけている堀川さんはいつも笑顔を絶やさず、書道が大好きで、中國文化に夢中な男性だ。太原市で留學していたため、堀川さんの中國語には山西省のなまりが染みついている。このほど、論文の答弁をクリアし、山西大學文學院古代文學の博士號を取得した。堀川さんは山西省で初めて博士號を取得した外國人となる。
書道好きが高じて、日本の桜美林大學で中國語を専攻していた大學2年生の時、堀川さんは太原師範學院の書道學部で客員教授をしていた日本の著名書道家・今川鷗洞さんの付添いとして太原市を訪問した。3週間という短い期間だったが、堀川さんは太原市にとても良い印象を抱き、「ここでは先生が皆まるで父親のようで、學生ととても仲が良かった。それは、日本ではとっくになくなってしまったもの」と話す。
太原師範學院書道學部の劉鎖祥・學部長などの勧めもあり、堀川さんは傅山の作品に初めて觸れた。傅山の作品が好きになった理由については「よく分からない。一人の人間を好きになるのに理由がないのと同じ」と堀川さん。
日本に帰國後、堀川さんはアルバイトをしてお金を貯め、2002年に大學を卒業すると反対する両親を説得して、太原師範學院の書道學部に自費留學した。學費は自分で貯めたお金と、両親の援助で補った。
月曜から金曜までは授業に出席し、土曜日は宿題。日曜日になると傅山の石碑を探すために山西省の各地を訪ねた。03年の冬、同級生の張宇星さんの勧めで、堀川さんは車に3時間乗って、陽泉市盂県を訪問し、傅山の作品「鳩銭碑」と故居「畏熱堂」を目にした。
盂県小橫溝村関帝廟の「鳩銭碑」は、堀川さんが太原市以外の場所で初めて見た傅山の石碑だった。「とても興奮し、當時氷點下20度以下だったにもかかわらず、真っ暗になるまで石碑の拓本作りに明け暮れた」。また、別の村ではある人點にとても感動したことがあったという。その人點の先祖は傅山の親友で、傅山がその先祖の家を借りて住んでいたこともあったという。そして傅山が住んでいた「畏熱堂」は約400年もの間、その家族によって代點守り続けられてきたのだ。
堀川さんと張さんは、そこで3日間寢泊まりし、大きな鍋で煮た麺を食べ、たくさんの親切な村民に出會った。その村での體験が、都會で育った堀川さんが一層中國が好きになるきっかけとなった。
この十數年の間に、堀川さんは數十種の傅山の石碑の拓本や寫真、傅山に関するさまざまな時期の書籍數百冊を収集した。そして、日本傅山研究會の理事になった堀川さんは、代表の今川さんと共に、日本で傅山の作品を紹介することに力を注いでいる。
ここ數年、二人は日本で、「傅山書法名選集」や「傅山墨翰」など傅山関連の書籍4冊を出版した。また、中日文化交流を促進するため、日本人書道家による太原市での書道展開催を何度も企畫してきた。そのような努力が実り、これまで、日本ではあまり注目されていなかった傅山は現在、王鐸と同じく、日本の書道界で注目を集める明・清代の代表的な書道家となっている。
太原師範學院での學業を終えた堀川さんは太原市のある大學で日本語の教師になり、08年には山西大學文學院で、劉毓慶教授の指導の下、古代文學の修士課程で學び、最終的には博士號まで取得した。
中國文化を探求する旅はまだ終わっていないため、堀川さんは太原市に定住することを決意。中國の古典文化書籍を読む中で、堀川さんは、「君子」に強い興味を抱いている。彼は「君子は、最も理想的な人格を身につけていなければならない。言葉で表現するのは難しく、儒教の経典を悟った先賢にしか説明できないだろう。ただ私も正點堂點と、そして楽しく生きていきたい。そして、人には優しく、自分には厳しく、先生や友人、學生から中國の伝統的な人德を學び、それを自分で実踐し、二年後には『四十にして惑わず』というようになりたい」と語った。
(人民網日本語版)
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