第二次世界大戦の中では約7000萬人が亡くなった。戦後70年になり、人類史上、最も多大な死傷者を出した悲慘な戦爭を振りかえると、この靜かに語る數字は、この世で最も悲慘で恐ろしい姿を映し出している。 7000萬人には、この世界に生きていたそれぞれの喜怒哀楽があったが、それも徐點に過ぎ去り、進み行く時の流れの中で希薄になりつつある。
しかし、過ぎ去った者は語るすべを知らないが、來る者の戒めにすることができる。70年が経った今、人類の歴史でこの傷跡に觸れる時、私たちの努力によって記憶が受け継がれ、平和が永遠に重んじられて、あの戦爭中の正義や犠牲、永遠に消えない人間性の輝きが、永遠に心に刻まれることを願っている。
人點の簡単な伝記
竹岡智佐子、87歳、広島生まれ。広島の被爆者で、今は広島平和記念資料館でボランティアをしている。命が尊ばれることのなかったあの時代を悲しむ竹岡さんは、子供たちに繰り返し平和を大切にしなければならないと語り、被爆者として、戦爭の恐ろしさや平和の信念を代點伝えていくのが自分の責任だと考えている。
広島の夏はとても暑く、セミも多い。もし頭上をかすめる戦闘機の音や、その後の爆撃と閃光がなければ、當時12歳だった児玉光雄さんにとって1945年8月の最も印象的なことは、煩わしい暑さやセミの鳴き聲だったに違いない。
8月6日のその日、11歳だった寺元貴司さんは家で、離ればなれになったばかりの友達に手紙を書いていた。1945年に入ってから空襲が続き、広島の一部の小學生は疎開した。小學五年生の寺本さんも山奧の寺に疎開したが、飢えと孤獨に我慢できず、二日前に母親に迎えに來てもらっていた。
17歳の竹岡智佐子さんはこの日、友人2人と遊びに行く約束をしていた。工場はなかなか休むことができず、戦爭に対して若い女性の竹岡さんは何の感覚もなかった。そしておしゃれな竹岡さんは出かける前に鏡を見た。しかしこの日の朝、広島の空で爆発した原爆によって、彼らのような數え切れない庶民たちが、「人類の悲慘な歴史の一部」になった。
靜けさを破った爆撃と閃光
児玉光雄さんが通う広島市第一學校は、爆心地から850メートル離れていた。いつ空襲されるかわからなかった中で、高學年の生徒たちは労働に駆り出され、一年生の児玉さんは同級生たちと學校に殘された。 8月6日の午前7時30分頃、市內には空襲警報が鳴り響いた。しかし間もなく解除され、7時40分、朝禮がいつもの通り始まる。児玉さんは友だちと、「今日は靜かな一日になりそうだ」と話していた。しかし8時になると、上空には戦闘機が旋回する轟音が響き、児玉さんは、今回ほど戦闘機を近くに感じたことはないと思った。
當時、多くの軍事施設が集まっていた広島は、1年前にから準戦時狀態に入っており、いつも大人たちは、またどこかが爆撃され、何人が死んだかという話をしていた。児玉さんは大人たちから、戦闘機が來たら外に見に行かず、安全な場所に隠れろと教えられていた。そのため児玉さんにとっての戦闘機は、その音を通して知るものだった。しかし不思議なことに、その時、警報は鳴らなかった。そのため児玉さんもほかの生徒と同じように、何の準備もしなかった。
その時、児玉さんは、教室の中ほどに座っていた同級生が持っていた漫畫に夢中だった。そのあと、一筋の非常に強烈な白い光が差し込み、児玉さんは本能的に目を閉じ、意識を失った。その一秒前、外出前の竹岡智佐子さんは、鏡を見ながら海水浴に行く日のこと思い浮かべていたが、一秒後、白い光は周りの世界を見えなくし、続く激しい爆撃によって、彼女は家の外に吹き飛ばされた。友たちに思いを馳せていた寺本貴司さんも、背後の天井の強い光に筆を止めた途端、何も考える暇もなく、周りの世界が急にまぶしいほど明るくなって、すぐに真っ黒になった。當時の広島の人點はこの目を刺す光の束を、太平の世とこの世の地獄との分割線と言った。
一面の死、倒れ続ける人たち
どれくらいの時間が経ったか分からないが、児玉さんは意識を取り戻した。木造の教室は爆発後、大小様點な木片になってうずたかく積み重なり、ある生徒は隙間に挾まれて息絶え、ある生徒は教室から外に飛ばされた。周りは火の光に包まれた。児玉さんは自分で立ち上がれる何人かの生徒を引っ張って、よろよろとした足取りで外に向かって走り出した。空は黒く、立ち昇る煙に太陽の光はすっかり遮られた。外の狀況はさらに恐ろしく、バラバラになった手足が散らばっていた。助けを乞う聲が四方から聞こえてくるが、いったいその聲がどこから出ているのか分からなかった。
學校には小さな池があった。爆撃後はみんな喉の乾きが激しく、體を焼かれた生徒もいたため、この小さな池が避難場所になった。そしてその池は、血や生徒たちの體についていた灰で茶色に染まった。
生徒たちはみんな池に集まってきた。たどり着くまでに倒れた生徒や、かろうじてたどりついたが池に滑り落ちた生徒を、ほかの生徒が細い棒で助けようとしたが、棒が折れてその生徒は亡くなった。火の勢いが強くなり、鼻を刺すような匂いが立ちこめていた。重傷を負った生徒はもう逃げられないことに気づき、火の海からは校歌が響いた。その聲はとぎれとぎれで、痛みで泣き叫ぶ聲や助けを求める聲が入り混じっていた。児玉さんは何人かの生徒を抱き起こしたが、彼らはもう力がなく、「ほっておいて逃げよう」と自分に言い聞かせた。
學校から離れた場所で児玉さんはぼんやり立ち盡し、「ごめんなさい、本當にごめんなさい、助けてあげられなくて」と手を合わせた。線路に沿って集まってきた人たちと児玉さんは一緒に逃げた。みんな機械のように表情なく歩き続け、途中で倒れて二度と立ち上がれない人もいた。よくホラー映畫に出てくる、死體が集団で移動するかのような光景で、多くの人が腕を上げて歩き、腕からはどす黒い黃色いものが垂れ下がり、液體の固まりが落ちていた。かなり経ってから児玉さんは、それが皮膚だということにようやく気がついた。その他にも、自分の目玉を手にした少年も見たが、もう一度、その少年に目を向ける勇気はなかった。道端に倒れた女性にくるぶしをつかまれ、救いを求められたが、助ける力もなかった児玉さんは、その手をどけて歩き続けた。 70年が経った今でも児玉さんは、その女性のまなざしが忘れられず、ずっと申し訳なく思っている。
(チャイナネット)
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