
劉丹氏の著書「琉球の地位-歴史と國際法」。(上海=新華社記者/張建松)
【新華社上海12月14日】中國の國際法學者、上海交通大學の劉丹(りゅう・たん)副研究員が取材に応じた。劉氏は2012年に琉球問題の研究を始め、19年に「琉球の地位-歴史と國際法」を出版。歴史と法律の客観的な立場から琉球問題の経緯や現在の國際的地位を明確に記述し、厳密な論証を行ったことで知られる。
劉氏によると、琉球は「萬國津梁(ばんこくしんりょう=萬國の架け橋)」と呼ばれ、かつては明清時代の中國の藩屬國であっただけでなく、アジアの重要な貿易中継國でもあった。地理的意味での「琉球群島」は、中國の台灣島北東と日本の九州島南西の間に広がる弧狀の群島を指し、歴史的意味での「琉球」は、山南、中山、山北からなる三山鼎立時代と、その後の琉球王國の対外的な総稱を指す。第2次世界大戦後は、戦略的な重要性から米國のアジア太平洋戦略における重要な存在となった。
19世紀後半、琉球併合を段階的に進めた日本は1872年に「琉球藩」を設置し、75年には琉球から清朝への進貢を禁止。79年に武力によって廃藩置県を行った。その後は中國と日本が琉球の地位を巡る「琉球交涉」に臨んだが、清政府は日本の併合の合法性を認めず、いかなる條約も締結しなかった。
琉球王國の発展は三つの段階に分けられるという。第1段階は「三山統一」から1609年の薩摩藩の侵攻前までで、琉球は獨立王國だった。第2段階は1609年から1872年までで、琉球は薩摩藩による支配を受けながらも政権や年號を保持し、當時の國際社會の認識や國際法の意味において依然として一つの國家だった。第3段階は1879年以降で、日本は武力で琉球を併合したが、中日間で主権の変更が合意に至らず、琉球の領域に関する正式な取り決めも締結されなかった。
劉氏は「第3段階で琉球帰屬問題に関する中日両國の外交交渉や第三國によるあっせん、さらに中日間での『分島改約』交渉がいずれも不調に終わったことは、近代の琉球の地位が『懸案』であった事実を裏付けている」と指摘。「1879年に日本が武力で琉球を併合すると、琉球の人點の抵抗を受け、琉球の宗主國の中國も併合の合法性を認めなかった。日本が1879年から第2次世界大戦終結前にかけて琉球を佔領した狀態は、武力による征服で琉球を強行に奪い取った結果であり『琉球の法的地位は未定』という事実を覆い隠すことはできない」と語った。
劉氏によると、1943年のカイロ會談ではルーズベルト米大統領自ら琉球問題に言及し、蔣介石(しょう・かいせき)に琉球の領有を何度も打診。蔣は米國と琉球を共同佔領することに同意し「最終的には一つの國際組織(後の國際連合)による信託統治の下で、米國とともに管理したい」と答えた。
しかし、第2次世界大戦後の琉球の処理は、米國の琉球に対する扱いが信託統治協定を根拠とせず、國連の信託統治體制下でもない自國による軍事佔領という「名目上は潛在的な信託統治だが、実質的には軍事佔領」だったという特殊性を帯びた。その中で、米國は1972年、「琉球諸島及び大東諸島に関する協定」の発効後に琉球を日本に「返還」した。
劉氏はこの過程について、國際信託統治制度や軍事佔領に関する法規の両方に違反しており、米國は國際法上の根拠と國內法上の十分な権限が欠如したまま琉球の行政と司法、立法を支配し、琉球の人點の権利と意思を著しく損なったと指摘した。
劉氏は「日本は第2次世界大戦中、琉球の人點に『玉砕』を強要し、戦後は米國が琉球を『太平洋の礎』として利用した」と説明。今では日本の右翼勢力が「台灣有事は日本有事」と喧伝(けんでん)して琉球群島を中國と対抗するための前哨基地に組み込み、琉球の人點を戦爭の最前線に引きずり込もうとしていると指摘し、「國際社會は琉球の地位を改めて見つめ直し、日本の軍國主義復活の危険性を警戒し、琉球の人點の人権と意思を尊重して、歴史の悲劇の再演を避けなければならない」と呼びかけた。(記者/張建松)